2010年10月、アメリカのスタンフォード大学の研究チームは、愛する人の写真を見るだけで身体的な痛みが劇的に和らぐという驚きの研究結果を、学術誌『PLoS ONE』にて発表しました。
恋愛の初期段階で感じる「相手のことで頭がいっぱいになる」という情熱的な心理状態は、脳内の「報酬系」と呼ばれる領域を活性化させます。今回の研究では、この脳の仕組みが強力な鎮痛効果をもたらすことが科学的に証明されました。
今回のポイント
- 恋人の写真を見るだけで、中程度の痛みが最大約45%も軽減した
- 脳の快感センターである「報酬系」が活性化し、天然の麻薬のように作用する
- 「気をそらす」ことによる鎮痛とは、脳内の処理ルートが根本的に異なる
研究の手法
研究チームは、交際開始から9か月以内の「情熱的な恋愛」をしている大学生15名(女性8名、男性7名、平均年齢20歳)を対象に実験を行いました。参加者は全員、恋愛尺度テストで「激しく恋に落ちている」と判定された人たちです。
実験では、参加者の手のひらに熱を加える装置を取り付け、「中程度の痛み」と「強い痛み」をランダムに与えました。その際、以下の3つのタスクを並行して行い、脳の活動をfMRI(機能的磁気共鳴画像法)でスキャンしました。
- 1. 恋人の写真を見る: 事前に提出されたパートナーの顔写真を見つめる。
- 2. 知人の写真を見る: 恋人と同程度の魅力を持つが、恋愛感情はない知人の写真を見る。
- 3. 言語による気をそらす課題: 「ボールを使わないスポーツを挙げなさい」といった思考課題に取り組む。
これにより、単に「魅力的な顔を見たから」あるいは「課題に集中して気を取られたから」ではなく、純粋な恋愛感情が痛みにどう作用するかを特定しました。
結果(数値と事実)
1. 痛みの自己評価が大幅に低下
実験の結果、恋人の写真を見ることで、自己申告による痛みの強さが有意に減少しました($p = 0.011$)。
具体的には、中程度の痛みを与えた際、知人の写真を見た時の評価と比べて、恋人の写真では痛みが約44.7%も減少しました。強い痛みの場合でも、約12.1%の減少が確認されています。
2. 脳の「報酬系」がフル回転
fMRIのデータ解析により、恋人の写真を見て痛みから解放されている時には、脳の「報酬系」回路が強く反応していることが分かりました。
特に、尾状核頭部、側坐核(そくざかく)、扁桃体、背外側前頭前野といった、ドーパミンが豊富に作用する領域の活動が増加していました。これらの部位は、コカインなどの依存性薬物やギャンブルで快感を得る時にも関わる場所です。
3. 「気をそらす」鎮痛との違い
興味深いことに、「気をそらす課題」でも痛みは約36%減少しましたが、反応している脳の部位は全く異なりました。課題集中による鎮痛は主に高次の認知機能を司る皮質領域で処理されていましたが、恋愛による鎮痛は、より原始的で深層にある報酬システムが主導していました。
著者の考察・結論
研究を率いたJarred Younger氏は、この現象について「恋愛感情が、まるで薬物による鎮痛剤のように脳内の強力な報酬経路を起動させている」と推測しています。
著者は、この仕組みには明確な「進化上のメリット」がある可能性を示唆しています。報酬(恋人)を追い求めている間は、多少の肉体的な苦痛を感じにくくすることで、個体が noxious(有害)な刺激に屈することなく、重要な目標を達成できるように進化したという考えです。
研究の限界として、15名という小規模なサンプルであるため性差の分析までは至っていないことや、恋人への「執着度」などによって個人差が出る可能性が挙げられています。しかし、薬を使わずに脳の報酬系を活性化させることが、新しい痛みの管理手法につながる可能性を強調して締めくくっています。
愛の力は単なる精神論ではなく、脳の深い部分で実際に「痛み」を遮断する生体反応であるといえます。
参考文献
Younger, J., Aron, A., Parke, S., Chatterjee, N., & Mackey, S. (2010). Viewing Pictures of a Romantic Partner Reduces Experimental Pain: Involvement of Neural Reward Systems. PLoS ONE, 5(10), e13309. https://doi.org/10.1371/journal.pone.0013309


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